学問のすすめを英訳 二編

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学問のすすめを翻訳したでござる。このページには二編の内容を掲載しているでござるよ。

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原文

端書

 学問とは広き言葉にて、無形の学問もあり、有形の学問もあり。心学、神学、理学等は形なき学問なり。天文、地理、窮理、化学等は形ある学問なり。何れにても皆、智識見聞の領分を広くして、物事の道理を弁え、人たる者の職分を知ることなり。知識見聞を開くためには、或は人の言を聞き、或は自から工夫を運らし、或は書物をも読ざるべからず。故に学問には文字を知ること必用なれども、古来世の人の思う如く、唯文字を読むのみを以て学問とするは、大なる心得違いなり。文字は学問をするための道具にて、譬えば家を建るに槌鋸の入用なるが如し。槌鋸は普請に欠くべからざる道具なれども、その道具の名を知るのみにて家を建ることを知らざる者は、これを大工と云うべからず。正しくこの訳にて、文字を読むことのみを知て物事の道理を弁えざる者は、これを学者と云うべからず。所謂論語よみの論語しらずとは即是なり。我邦の古事記は諳誦すれども、今日の米の相場を知らざる者は、これを世帯の学問に暗き男と云うべし。経書史類の奥義には達したれども、商売の法を心得て正しく取引を為すこと能わざる者は、これを帳合の学問に拙なき人と云うべし。数年の辛苦を嘗め、数百の執行金を費して、洋学は成業したれども、尚も一個私立の活計を為し得ざる者は、時勢の学問に疎き人なり。是等の人物は唯これを文字の問屋と云うべきのみ。その功能は飯を喰う字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨る食客と云うて可なり。故に世帯も学問なり。帳合も学問なり。時勢を察するも亦学問なり。何ぞ必ずしも和漢洋の書を読むのみを以て学問と云うの理あらんや。この書の表題は学問のすゝめと名けたれども、決して字を読むことのみを勧るに非ず。書中に記す所は、西洋の諸書より、或はその文を直に訳し、或はその意を訳し、形あることにても、形なきことにても、一般に人の心得と為るべき事柄を挙て、学問の大趣意を示したるものなり。先きに著したる一冊を初編と為し、尚その意を拡てこの度の二編を綴り、次で三、四編にも及ぶべし。

人は同等なる事

段落一

 初編の首に、人は万人皆同じ位にて生れながら上下の別なく自由自在云々とあり。今この義を拡て云わん。人の生るゝは天の然らしむる所にて人力に非ず。この人々互に相敬愛して、各その職分を尽し互に相妨ることなき所以は、もと同類の人間にして、共に一天を与にし、共に与に天地の間の造物なればなり。譬えば一家の内にて兄弟相互に睦しくするは、もと同一家の兄弟にして、共に一父一母を与にするの大倫あればなり。

段落二

 故に今、人と人との釣合を問えば、これを同等と云わざるを得ず。但しその同等とは有様の等しきを云うに非ず、権理通義の等しきを云うなり。その有様を論ずるときは、貧富、強弱、智愚の差あること甚しく、或は大名華族とて御殿に住居し美服美食する者もあり、或は人足とて裏店に借家して今日の衣食に差支る者もあり、或は才智逞うして役人と為り商人と為りて天下を動かすものあり、或は智恵分別なくして生涯飴やおこしを売る者もあり、或は強き相撲取あり、或は弱き御姫様あり、所謂雲と泥との相違なれども、又一方より見て、その人々持前の権利通義を以て論ずるときは、如何にも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働を与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛を設けたるものなれば、何等の事あるも人力を以てこれを害すべからず。大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり。豪商百万両の金も、飴やおこし四文の銭も、己が物として之を守るの心は同様なり。世の悪しき諺に、泣く子と地頭には叶わずと。又云く、親と主人は無理を云うものなどゝて、或は人の権理通義をも枉ぐべきものゝよう唱る者あれども、こは有様と通義とを取違えたる論なり。地頭と百姓とは、有様を異にすれども、その権理を異にするに非ず。百姓の身に痛きことは地頭の身にも痛き筈なり、地頭の口に甘きものは百姓の口にも甘からん。痛きものを遠ざけ甘きものを取るは人の情欲なり、他の妨を為さずして達すべきの情を達するは、即ち人の権理なり。この権理に至ては地頭も百姓も厘毛の軽重あることなし。唯地頭は富て強く、百姓は貧にして弱きのみ。貧富強弱は人の有様にて固より同じかるべからず。然るに今、富強の勢を以て貧弱なる者へ無理を加えんとするは、有様の不同なるが故にとて他の権理を害するにあらずや。これを譬えば力士が我に腕の力ありとて、その力の勢を以て隣の人の腕を捻り折るが如し。隣の人の力は固より力士よりも弱かるべけれども、弱ければ弱きまゝにてその腕を用い、自分の便利を達して差支なき筈なるに、謂れなく力士のために腕を折らるゝは迷惑至極と云うべし。

段落三

 又右の議論を世の中の事に当はめて云わん。旧幕府の時代には士民の区別甚しく、士族は妄に権威を振い、百姓町人を取扱うこと目の下の罪人の如くし、或は切捨御免などの法あり。この法に拠れば、平民の生命は我生命に非ずして借物に異ならず。百姓町人は由縁もなき士族へ平身低頭し、外に在ては路を避け、内に在て席を譲り、甚しきは自分の家に飼たる馬にも乗られぬ程の不便利を受けたるはけしからぬことならずや。

段落四

 右は士族と平民と一人ずつ相対したる不公平なれども、政府と人民との間柄に至ては、尚これよりも見苦しきことあり。幕府は勿論、三百諸侯の領分にも各小政府を立てゝ、百姓町人を勝手次第に取扱い、或は慈悲に似たることあるも、その実は人に持前の権理通義を許すことなくして、実に見るに忍びざること多し。抑も政府と人民との間柄は、前にも云える如く、唯強弱の有様を異にするのみにして、権理の異同あるの理なし。百姓は米を作て人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。是即ち百姓町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し善人を保護す。是即ち政府の商売なり。この商売を為すには莫大の費なれども、政府には米もなく金もなきゆえ、百姓町人より年貢運上を出して政府の勝手方を賄わんと、双方一致の上、相談を取極めたり。是即ち政府と人民との約束なり。故に百姓町人は年貢運上を出して固く国法を守れば、その職分を尽したりと云うべし。政府は年貢運上を取て正しくその使払を立て、人民を保護すれば、その職分を尽したりと云うべし。双方既にその職分を尽して約束を違うることなき上は、更に何等の申分もあるべからず、各その権利通義を逞うして、少しも妨を為すの理なし。然るに幕府のとき、政府のことを御上様と唱え、御上の御用とあれば、馬鹿に威光を振うのみならず、道中の旅籠までもたゞ喰い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、甚しきは旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。沙汰の限りと云うべし。或は殿様のものずきにて普請をするか、又は役人の取計にていらざる事を起し、無益に金を費して入用不足すれば、色々言葉を飾て年貢を増し、御用金を云付け、これを御国恩に報ると云う。抑も御国恩とは何事を指すや。百姓町人等が安隠に家業を営み、盗賊、ひとごろしの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と云うことなるべし。固より斯く安隠に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設て人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と云うべからず。政府若し人民に対しその保護を以て御恩とせば、百姓町人は政府に対しその年貢運上を以て御恩と云わん。政府若し人民の公事訴訟を以て御上の御約介と云わば、人民も亦云うべし、十俵作出したる米の内より五俵の年貢を取らるゝは、百姓のために大なる御約介なりと。所謂売言葉に買言葉にて、はてしもあらず。兎に角に等しく恩のあるものならば、一方より礼を云て一方より礼を云わざるの理はなかるべし。

段落五

 斯る悪風俗の起りし由縁を尋るに、その本は人間同等の大趣意を誤りて、貧富強弱の有様を悪しき道具に用い、政府富強の勢を以て、貧弱なる人民の権理通義を妨るの場合に至りたるなり。故に人たる者は常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれを「レシプロシチ」又は「エクウヲリチ」と云う。即ち初編の首に云える、万人同じ位とはこの事なり。

段落六

 右は百姓町人に左袒して、思うさまに勢を張れと云う議論なれども、又一方より云えば別に論ずることあり。凡そ人を取扱うには、その相手の人物次第にて、自からその法の加減もなかるべからず。元来人民と政府との間柄は、もと同一体にて、その職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬えば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従うべしと条約を結びたる人民なり。故に一度び国法と定りたることは、仮令い或は人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々、謹て守らざるべからず。是即ち人民の職分なり。然るに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起るとのみ、その無学のくせに慾は深く、目の前に人を欺て、巧に政府の法を遁れ、国法の何物たるを知らず、己が職分の何物たるを知らず、子をばよく生めどもその子を教るの道を知らず、所謂恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁昌すれば一国の益は為さずして、却て害を為す者なきに非ず。斯る馬鹿者を取扱うには、迚も道理を以てすべからず、不本意ながら力を以て威し、一時の大害を鎮むるより外に方便あることなし。是れ即ち世に暴政府のある所以なり。独我旧幕府のみならず、亜細亜諸国古来皆然り。されば一国の暴政は必ずしも暴君暴吏の所為のみに非ず、その実は人民の無智を以て自から招く禍なり。他人にけしかけられて暗殺を企る者あり、新法を誤解して一揆を起す者あり、強訴を名として金持の家を毀ち、酒を飲み、銭を盗む者あり。その挙動は殆ど人間の所業と思われず。斯る賊民を取扱うには、釈迦も孔子も銘案なきは必定、是非とも苛刻の政を行うことなるべし。故に云く、人民若し暴政を避けんと欲せば、速に学問に志し、自から才徳を高くして、政府と相対し、同位同等の地位に登らざるべからず。是即ち余輩の勧る学問の趣意なり。

現代語訳

端書

 一言で学問と言ったところで、無形の学問もあれば有形の学問もある。心理学、神学、哲学などは無形の学問である。天文学、地理学、物理学、化学などは有形の学問である。いずれの学問においても重要な事は、知識や見聞を広くして、物事の道理を弁え、人としての務めを知る事である。知識や見聞を広げるためには、人の意見を聞いたり、自ら考えて工夫をこらしたり、書物を読まなければならない。だから学問をするには文字を読む事ができなければならないが、昔から人々が思っているように、ただ難しい文字を読む事だけを学問と呼ぶのは大きな勘違いである。

文字は学問をするための道具でしかなく、例えるならば家を建てるのにトンカチやノコギリが必要となるのと同じである。トンカチやノコギリが無ければ家を建てる事はできないが、その道具の名前を知っているだけで家の建て方を知らない様な者は大工とは呼べない。そういう訳であるから、ただ難しい文字の読み方を知っているだけで物事の道理を知らない様な者は、学者と呼ぶには値しない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とはこの事である。

たとえ我が国の古事記は暗唱できても、今日の米の相場を知らない者は、家庭の経済に暗い人間と呼ぶべきである。たとえ古い経典や史書といった書物の奥義を極めていたとしても、商売の方法や正しい取引のやり方も知らないというのでは、会計に暗い人間と呼ぶべきである。たとえ数年の苦労を重ね、多額の資金を費やして西洋の学問を修めたとしても、自立して生計を立てる事ができないというのであれば、時勢に暗い人間と呼ぶべきである。この様な人々は、単なる文字学問の問屋みたいなものである。食事をする辞書とも言える。国家にとってはまるで役に立たず、その経済活動を妨げる無駄飯食らいと言っても良い。

だから家庭の経済も学問である。会計も学問である。時勢を読む事もまた学問である。和漢西洋を問わず、ただ書物を読む事だけをもって学問と言うのではない。この本の表題は学問のすすめと名付けたけれども、決して本を読む事だけを勧めている訳ではない。この本に書いてある内容は、西洋の書物の文をそのまま翻訳し、あるいはその意味を分かりやすく意訳し、有形のものも、無形のものも、多くの人々の心得とすべき事柄を選んで、学問をするその大きな目的を示したものである。以前書いた一冊を初編とし、その内容を拡げて今回の二編を書いたが、今後三編、四編と続ける予定である。

人は平等だという事

段落一

 初編の冒頭で私は、「人は皆すべて同じ身分に生まれ、上下の区別なく自由自在である」と言った。今この意味するところを広げて解りやすく説明しよう。人が生まれてくるのは天がそういう風にしているのであって、人の力によって生まれてくるのではない。これらの人々が互いに敬愛して、それぞれの役目を果たして互いの邪魔をしないというのは、もともと同じ人間であり、ただ一つの天を共有し、お互いが天地の間に生きる被造物だからである。例えるなら一つの家庭の兄弟が仲良くするのと同じで、もともと同じ家の兄弟であり、同じ両親を持っているという人として当たり前の事実がある様なものである。

段落二

 だから今、人と人とを比べたなら、これは同等と言わざるを得ない。ただしその同等とはその有様が等しいという事ではなく、生まれ持った権利が等しいという事である。人の有様について言うならば、貧富、強弱、頭の良し悪しなどにも大きな差があるし、大名や華族などといってお屋敷に住んで綺麗な服を着ておいしいものを食べる者がいれば、肉体労働者として路地裏の借家に住んでその日の衣食に困る者もいる。あるいは才知豊かで政府の役人や商人になって天下を動かす者もあれば、知恵や分別を持たずに一生飴やお菓子を売る者もいる。あるいは強い相撲取りがいれば、弱いお姫様もいる。いわゆる雲泥の違いを生じているのだが、その一方でそれぞれの生まれ持った権利に関して言うならば、やはり同等でほんの少しの違いも無い。その権利とは、その生命を重んじ、その財産を守り、その立場や名誉を大切にするという人として当たり前の権利である。

天が人間を造り出す時には、これに体と心の働きを与えて、人々自らこの権利を全うする様にと仕掛けを施してくれている。だからどんな理由があろうともこの権利を侵してはならない。大名の命も肉体労働者の命も、命の重さという点では同じである。豪商にとっての百万両の金も、飴売りの四文の小銭も、自分の財産としてこれを大切にする心は同じである。

世間の悪い諺にある様に「泣く子と地頭には勝てぬ」とか、あるいは「親と主人は無理を言うもの」などと言って、人の権利を平気で踏みにじる様な事を言う人がいるけれども、これは世間の有様と生来の権利を取り違えた意見である。

地頭と百姓はその有様こそ違うものの、その権利はまったく同じである。百姓の体で痛いと感じる事は、地頭の体でも痛いはずであるし、地頭の口で甘いと感じる物は、百姓の口にも甘いはずである。痛い事を避けて甘い物を欲しがるのは人として当然の感情であるし、他人の妨げにならない範囲で自分の感情に従う事は、すなわち人としての権利である。この権利においては、地頭と百姓の間にほんの少しの違いも無い。ただ地頭は裕福で強く、百姓が貧しく弱いというだけの事なのだ。

貧富や強弱の違いは人の有様の違いなので、元より同じであるはずが無い。だからと言って、富強である事をかさに着て、貧弱な者に無理を押し通そうとするのは、有様が違う事を利用して他人の権利を侵害する行為ではないか。これを例えるならば、相撲取りがその腕力を頼みに、力づくで隣の人の腕をへし折るようなものである。この隣の人は確かに相撲取りよりも弱いはずであるけれども、弱ければ弱いだけの腕の力を使って、自分の良いように活用しても良いはずなのに、何の理由もなく相撲取りによって腕を折られたとしたら、迷惑この上ないと言わざるを得ない。

段落三

 またこの事を世の中に当てはめてみよう。旧幕府の時代には侍と民衆の区別がはなはだしく、士族はいたずらに権威を振るって、百姓や町人をまるで罪人の様に見下していた。百姓町人から無礼を受けたら切り殺しても良いと言う切捨御免などの法もあった。この法によれば、彼ら平民の生命は自分のものではなく借り物みたいなものと言わざるを得ない。百姓町人は何の所縁もない侍に平身低頭し、外にあっては道を譲り、内にあっては席を譲り、さらにひどい事に自分の家で飼っている馬に乗ることさえ許されないという不便を強いられていた事はけしからぬ事ではないか。

段落四

 これは士族と平民を一人づつ見た場合の不公平さなのだが、これを政府と人民との関係で見てみるともっとひどい事がある。かつて幕府はもちろんの事、全ての大名の領地にもそれぞれ小さな政府を立てて、百姓や町人を勝手に取り扱っていた。時には慈悲があるように見える事もするけれども、実際には領民が生まれ持っているはずの権利を認める事はなく、見るに堪えない事も多かった。

そもそも政府と人民との関係は、前にも言った通り、ただ強いか弱いかの違いがあるだけで、権利の観点からはまったく同じである。百姓は米を作って人を養い、町人は物を売買して世の中の役に立っている。これが百姓や町人の商売である。

これに対し政府は法律を作って悪人を罰して善人の生活を守る。これが政府の商売である。この商売をするには莫大な経費が必要となるけれども、政府には米も金もないので、百姓や町人から年貢や税金を払ってもらって政府の財政を賄おうという事で、お互いに相談しあって約束を取り決めたのだ。これが政府と人民との約束である。

だから百姓や町人は年貢や税金を払って法律を守ってさえいれば、その義務を十分に果たしていると言える。政府は集めた年貢や税金を正しく使用し、人民の生活を守りさえすれば、その義務を十分に果たしていると言える。こうしてお互いがそれぞれの義務を果たして約束を破る事がなければ、これ以上何も言う必要もないはずであり、それぞれが自分の権利を主張して、それを妨害する理由もない。

それなのに幕府の治世では、政府の事を「御上様」と呼んで、御上の御用という事であれば、やたらとその威光を振りかざすだけに留まらず、道中の宿屋でもただ食いしたり、渡し場でも渡し賃を払わず、労働者に賃金も与えず、ひどい時には御用を受け持つ侍が労働者をゆすって酒代をたかったりまでしていた。言語道断である。

あるいは殿様の思い付きで建物を建てたり、役人が勝手に余計な事をしたりして、無駄に金を使って資金が不足すれば、いろいろと言葉を飾り立てて年貢を増やし、御用金という名の税金を取り立て、これを「御恩に報いる」などと言う。

だいたい御恩とは何を指して言うのか。百姓や町人が安心して家業を営み、盗賊や人殺しの心配をせずに生活できる事を、政府の御恩と言っているのである。確かに人民が安心して生活できるのは政府が法律を定めているからではあるが、法律を定めて人民を保護する事は、もともと政府の商売であり当然の義務である。これを御恩などと呼んではいけない。

政府がもし人民の生活を守る事を御恩と呼ぶのならば、百姓や町人は政府に対して年貢や税金を払っている事を御恩と呼ぶべきである。政府がもし人民の訴訟を「御上の迷惑」と呼ぶのならば、人民の方でも「十俵作った米のうちから五俵の年貢を取られる事は、百姓にとって大変な迷惑です」と言ってやるべきである。

しかしこのように売り言葉に買い言葉を返していてはキリがない。ともかく、お互いに等しく恩恵を受けているという間柄であれば、一方からだけ礼を言って、もう一方より礼を言わないというのは理屈に合わない事なのだ。

段落五

 この様な悪い慣習が広まった原因を探ってみると、その大元は人間は皆平等であるという大原則を理解せずに、貧富強弱といった上辺の有様をいいことに、強い政府が弱い人民の権利を妨害してきた事にある。だから人は皆平等の権利を持っているという事を忘れてはならない。これが人間の世界で最も大切な事である。西洋の言葉ではこれを「レシプロシチ (reciprocity)」とか「エクウヲリチ (equality)」と言う。初編の冒頭で私が言った、「全ての人間は平等」とはこの事である。

段落六

 こういう風に言うとまるで百姓町人の肩を持って、彼らに対して思うがままに振る舞えと言っているように聞こえるかも知れないが、別の方向から見れば他にも言っておかなければならない事がある。

人間を取り扱う時には、その相手の人物次第で自ずからそれに応じた対応というものがある。もともと人民と政府の関係は、同じ権利を持つ者同士が、その役割を区別し、政府は人民の代わりに法律を制定し、人民はその法律を必ず守ると固く約束を交わしたものである。

例えば今、日本国内にいて明治の年号を認める人々は全て、今の政府に法律に従うという契約を結んだ人民である。だから一度国家の法律として定まった事は、例え一個人にとって不都合な事があったとしても、その法律が変わらない限り従わなければならない。注意深く慎んで、法を守るように努めなければならない。これが人民の義務である。

それなのに無知無学にして道理を知らず、飲み食いと寝ること以外の芸を知らず、無学なくせに欲だけは深く、人を騙したり法の網を上手に逃れたりし、国法の何たるかを知らず、自らの義務の重さも解らず、子供は作るけれども教育を施す事を知らないという、いわゆる恥も法も知らない馬鹿者がいる。そんな輩の子孫が増えてしまっては国家の利益とならないばかりか、逆に国家の害となる可能性まである。

このような馬鹿者を取り扱う時には、とても道理を用いる事などできない。不本意ながらも力を用いて脅し、一時的な大害を防ぐより他に良い方法がない。そしてこれがこの世の中に暴力的な政府が存在する理由である。これは我が国の幕府だけの事ではなく、アジアの諸国も昔から同様である。だから一国の暴政は必ずしも暴君や悪い官吏のみの責任ではない。その実態は人民の無知が自ら招いた災いなのだ。

他人にそそのかされて暗殺を企てる者や、新しい法律を誤解して一揆を起こす者、強訴といって金持ちの家を襲い、酒を勝手に飲んだり金品を強奪したりする者がいる。その行いはとても人間の所業とは思えない。このような国家の賊を取り扱うには、お釈迦様でも孔子でも名案が無いに決まっている。そこでやむを得ず苛酷な政治を行う事となるのだ。

だから「人々がもし暴政を避けようと思ったら、ただちに学問を志し、自らの才能や人徳を高くして、政府と対等の立場に上る他ない」と言うのだ。これがつまり私が勧める学問の目的である。

英訳文

Preface

 There are many kinds of studies. Psychology, theology and philosophy are immaterial studies. Astronomy, geography, physics and chemistry are material studies. In either case, you must have broad knowledge and know the reasons of things and your duty. To have broad knowledge, you have to hear others' opinions, think by yourself and read books. So you have to be able to read when you learn. But it is a big mistake if you think that learning is just reading books like the people of former days.

Reading is just a means of learning. For example, you need a hammer and a saw to build a house. But if you know only their names and don't know how to build a house, you cannot be a carpenter. Therefore a person who can only read difficult books and doesn't know the reasons of things is not worthy of the name of scholar. He is a so-called "learned fool".

A person who can recite Japanese history but doesn't know the current market price of rice, is a person who doesn't know domestic economy. A person who has a thorough knowledge of Chinese classics but doesn't know how to trade, is a person who doesn't know accounting. A person who learned Western studies well with spending a lot of time and money but cannot make a living by himself, is a person who doesn't know the trend of the times. These people are just wholesalers of studies. They are not different from dictionaries that eat foods. They are useless for the nation and are burden on national economy.

So domestic economy is a study. Accounting is a study. To know the trend of the times is a study, too. Learning does not mean only to read Japanese, Chinese and Western books. I named this book "An Encouragement of Learning", but I don't encourage just only reading books. I wrote in this book, from Western books, with translating literally or freely, material and immaterial things that you should know, to show you the great purpose of learning. I made the former booklet the first chapter, and I expand it and wrote this second chapter. Next I will write the third and fourth.

Everyone is equal.

Paragraph 1

 In the beginning of the first chapter, I said, "All men are created equal and free." Now I explain it in detail. All men are born by Heaven's will, not by human power. All people should love and respect each other, fulfill their duty and should not bother others. Because they are the same human beings, share the same heaven and are creations between heaven and earth. This is about the same, that siblings love each other because they are in the same family and have the same mother and father.

Paragraph 2

 From the point of this view, everyone is certainly equal. However, this does not mean the equality of status. It means the equality of rights. When it comes to status, there are big differences among people, such as the poor and the rich, the strong and the weak, and the wise and the fool. There are feudal lords and the aristocracy who live in a mansion, wear good clothes and eat good food; manual workers who live in a small rented house in a back street and are in need of food and clothes; talented people who become bureaucrats or merchants and have power; incompetent people who sell candies for life; strong sumo wrestlers; and weak princesses. However, when it comes to human rights, there is no difference among people. The rights are: the right to life, the right to protect one's property and the right to defend one's honor.

When Heaven created people, everyone was given functions of body and mind to fulfill these rights. So we must not violate the rights, no matter what. Feudal lords' and manual workers' lives have the same value. A wealthy merchant makes much of his one million and a candy seller makes much of his five cents, they have the same feelings to care their property.

There are bad proverbs, they say "You cannot win against a crying baby and a liege lord." or "Parents and lords speak nonsense and you have to obey." Some people use these proverbs and insist that human rights can be taken away. But they are confusing people's status and human rights.

A liege lord and a peasant have different statuses, but they have the same rights. A thing that a peasant feels pain, is a thing that a liege lord also feels pain. A food that a liege lord tastes sweet, is a food that a peasant also tastes sweet. It is natural that they avoid pains and want sweets. So it is a human right that people acquire their desires, without bothering others. From the point of view of this right, a liege lord and a peasant are the completely same. A liege lord is only wealthy and strong, and a peasant is only poor and weak.

Wealth and poverty, strength and weakness are statuses and people are not the same from the point of this view. But if you force poor and weak people with your wealth and strength, it is a violation of rights by taking advantage of the difference of statuses, isn't it? This is, so to speak, a sumo wrestler breaks his next person's arm with his arm power. Of course, this next person is weaker than a sumo wrestler. But he could have used his weak arms and acquired his desires. It is a disaster to be broken one's arm by a sumo wrestler without any reason.

Paragraph 3

 And let's apply this argument to the society. In the Edo period, there were a lot of differences between samurais and commoners. Samurais were arrogant, treated commoners as if they were criminals, and looked them down. There was a law that allowed samurais kill commoners to defend their honor. According to the law, commoners' lives were not theirs, they were no more than borrowed lives. They had to prostrate themselves to even relationless samurais, give their way outdoors and give up their seats indoors. What's worse, they were not allowed to ride horses they owned. Such things are unforgivable, aren't they?

Paragraph 4

 These are the unfairness between samurais and commoners. But between the government and the people, there were more ugly things. Needless to say about the shogunate, each feudal lord had his small government and treated its people selfishly. Sometimes, they showed mercy to their people. But actually, they never admitted that the people have their rights, and there were a lot of ugly things.

In the first place, between the government and the people, as I said before, there is only the difference of power and no difference of rights. Farmers feed people by making rice and merchants help people by trading goods. These are their business.

The government protect its people by making laws and punishing criminals. This is the government's business. Although this business needs a lot of money, it cannot make rice or money by itself. So the government and the people discussed each other and made the agreement that the people pay taxes to support the government finances. This is the contract between the government and the people.

Therefore, if the people pay taxes and obey the law, they are fulfilling their duties enough. If the government uses the taxes properly and protects its people, it is fulfilling its duties enough. Because both of them are fulfilling their own duties, they should not require each other any more. Both of them can assert one's rights and there is no reason to violate the rights.

However, in the Edo period, the people called the government "the lord". When it came to the lord's business, samurais were not only arrogant. They rode river ferries and hired manual workers without paying a penny. Moreover, some samurais sponged on the workers for money to drink. It's outrageous, isn't it?

And, when feudal lords built a building on a whim or the government officials did needless things and then they got short of funds senselessly, they imposed more taxes on the people by flowery words. They called this "repaying the debt to the country".

So, what is "the debt to the country"? They said it was a debt that the people could live peacefully without being worried about robbers and murderers. Of course, the people can live peacefully thanks to the laws by their government. But it is the government's business to make laws and protect its people. They are obligations of the government, not the people's debt.

If the government call the protection to its people a "debt", the people also should call their taxes a debt. If the government call lawsuits by the people its nuisances, the people also should say, "it is a big nuisance for farmers that the government imposes 50 percent tax on our rice crop."

But this is like "one ill word asks another" and there is no end. Anyhow, if they are in a relationship to help each other, there is no reason that one should thank the other unilaterally.

Paragraph 5

 The cause of such bad customs prevailed, was that they didn't understand the principle that everyone is equal and the government abused its strength to its weak people and violated their rights. So you must not forget that everyone has equal rights. This is the most important thing in the human society. In the western words, it is called "reciprocity" or "equality". This is what I said, "everyone is equal", in the beginning of the first chapter.

Paragraph 6

 This is an argument to support the commoners and encourage them to behave as they want. But I have to tell you one more thing from an alternative perspective.

When the government deal with the people, there are different treatments according to the cultural standard of the people. The government and its people have the same rights by nature. Then they have made the contract that the government makes laws instead of the people and the people must obey the laws.

For instance, the people who accept the name of Meiji period, are the people who have made the contract to obey the laws by the government today. So, after a law has been enacted, all the people must obey it until it is revised, if it is inconvenient for an individual. You must be careful and try hard to follow the laws. This is an obligation of the people.

However, there are the people who are ignorant and illiterate, and don't know what is right and wrong. They know only eating and sleeping. Nevertheless, they are so greedy that they cheat others and elude the law. They cannot understand the importance of the national law and their obligations. Although they have a lot of children, they don't know how to educate them. They are idiots who don't have any dignity and don't know what are laws. If their children prosper, they will not benefit the country at all, on the contrary, it is possible that they will be harmful to the country.

When you treat such idiots, you cannot use reasons that they cannot understand. You have no choice but to threaten them with force and avoid the calamity temporarily. And this is the reason there are oppressive governments in the world. This is not only the former shogunate in this country, but also all the other Asian countries from old times. So the tyranny in one country is not only its tyrant and bureaucrats' fault, in fact, it is a calamity that was caused by its ignorant people themselves.

There are people who attempt an assassination by instigation, people who misunderstand a new law and start a riot, and people who break into the rich's house, drink liquors and steal money. There is almost no humanity in their deeds. When you treat such outlaws, even Buddha and Confucius must not have a good idea. So there is no choice but to rule them severely.

So they say, "If the people want to avoid a tyranny, they must learn immediately, enhance their abilities and virtue, and gain their position as high as their government." This is the main purpose of learning, that I am encouraging.

Translated by へいはちろう

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